Narcissu評‐其の壱〜18禁ゲームの潮流〜

 18禁=エロという等式は、我々の中に深く浸透している。最高峰と名高いType-moonやKeyの諸作ですら、その柵を免れない(もっとも「CLANNAD」は、これにあてはまらない。Keyの独自路線は、突如その方向性を変えた。「リトルバスターズ」で、その答えが、かなり導き出されるのではないか。)。世間一般の認知度の向上や、移植環境の変化も相俟って、この等式は、より一層強固なものと化した。その反面、18禁ゲームはオタクの文化の骨頂だという認識も強まり、一時期(あるいは今でも)白眼視される事態となったが、最近は随分と門戸も広くなったように感じる。


 かつて、「18禁」というフィールドが存在した(もちろん今も存在する)黎明期には、そこに物語性は欠片もなかった。現在でもファンディスクとして多用されるマージャン(ポンジャンも)や簡易SLGは、その草分け的なジャンルで、プレイヤーが何かしらのアクションを起こして問題を解決すれば、ご褒美程度にエロいCGを見せてもらえたわけだ。余談だが、かの歴史ゲーの大家コーエーでさえ、「ナイトライフ 」、「団地妻の誘惑」、「オランダ妻は電気ウナギの夢を見るか?」という光栄アダルト三部作なるものを発売していた。現在の当社の様相から考えると、あくたほども想像がつかない。要は、プレイヤーは女の子の裸さえ目に焼き付けさえすれば、それで本望だったわけである。


 ところが、時代は進むと、プレイヤーはそれだけでは物足りなくなった。決して、女の子に飽きたのではない。ただ、立ち塞がる障壁を崩すだけでそれを拝めるという、その作業に飽きたのだ。そこで、シナリオを18禁ゲームに盛り込むことで物語性を持たせ、その性描写をもっと意義あるものにしようとした。この結果、本格的に女の子に感情移入するプレイヤーは飛躍的に増え、以来、「泣きゲー」を筆頭に様々なジャンルに分岐していくことになった。思えば、18禁における「感情移入」という言葉のはじまりは、ここにあるのではなかろうか。これらは、チュンソフトサウンドノベルから派生したと言っても過言ではないビジュアルノベル第一弾、『雫』にその源流を見る事が出来よう(昔日のelf諸作品など、雫より以前の作品はその先駆であって、潮流を確たるものとしたわけではない)。


 いまや、文を読むことによって、エロが高められているノベルゲームの実態がある。気がつけば、その傾向はプレイヤーの意思とはおよそ関係なく主流となっていた。数多の作品がこの枠の中で作られている昨今、シナリオ、テキスト、サウンド、コンフィグなどの善し悪しによって評定していれば、いつの日かテキストを読むだけの「作業」へと堂々巡りする。必ずや、没個性的な作品が同位で群れる惨状となる。


 そもそも、コンシューマに比べて認知度が低い18禁が、ここまで多数の作品を捻出している背景には、その手軽さ、敷居の低さがあった。というのは、コンシューマと違い、個々の能力が重視されたからである。しかし、いくら高い能力をもってしても、ノベルの範疇を抜け出した者は過去に例がない(ILLUSIONは例外中の例外)。シナリオでもって、18禁=エロということを再確認してきただけなのである。Key、Leafをはじめとするブランドから連綿と踏襲されてきた従来の「紙芝居形式」が、いつまで続くのかは定かではない。しかし、円熟期を迎えている中で、新たな意味での「18禁」が顔を覗かせつつある。それ自体はまだ「紙芝居形式」かもしれないが、物語を付加することによってエロに意味づけをしてきた手法とは、また一味違う18禁(18禁という名称ではないかもしれない)が間近に迫っているようである。18禁=エロという等式が、随分と歪んできた。以前、コンシューマユーザーがバイアスを持っていた18禁が、新たな転換点を迎えようとしている。まだ、分岐点には差し掛かっていない。可能性は∞である。


 一作品を語るのは忍びないが、片岡とも氏は、その桎梏を打ち破るかのように、革めて「全年齢大人向け」の物語というレーティングを付けた。18禁=エロという等式を悉く嫌う(嫌うというよりも、無理なエロの挿入を避けている)氏は、実験的所作でもって我々に訴える。他のブランドに企及しているわけではない。ただの「実験」なのである。前作ではボイスの有無について問い、今作ではイメージの分散化について問い、かつ共に可能な限り情報を少なくした。さらに、氏は「絵」や「シナリオ」など、視覚的な要素までも削ろうとしたが、これらは、現在の18禁に明らかに遡行している。というより、もはや支離滅裂である。だが、現状の業界を鑑みると、これは非常に革新的で、18禁=シナリオ+エロというマンネリズムを打破する可能性を大いに秘めている。そういった意味では、この「Narcissu」という作品は先駆と成りうる。我々はその「実験」に立ち会えるだけ、幸せなのかもしれない。