『リトルバスターズ』 掴み

 私は鍵厨と揶揄されるようなKey愛好者ではありません。なぜならば、一連の‘感動作群’に滂沱しなかったからです。KanonからCLANNADまで、泉石(造園された庭のこと)のような造形を覚え機械的に泣かされていることに違和感を感じた私にとって、今までの作品は必ずしも歓迎すべきものではありませんでした。


 かつて私はCLANNADの評において、「歩は金に成れるが金は歩になれず。ひとたび歩み始めたKeyの感動路線は、もう二度と引き返す事が出来ないのだ。」と指摘しました。奇跡と感動の全きなる共演は、Key以外のブランドでは成せざる業であったのです。好悪は抜きにして、その実力のほどは窺い知れるものでした。ですからユーザーは、‘被感動性’に特化した作風に惹きつけられ、これらの路線に沿った作品は多くの支持を集めてきたと言えます。‘泣きゲー’が求められている限り、また、Keyの路線がそのままである限り、このブランドの地位は磐石であったことでしょう。


 さて、この作品はどうでしょうか?あからさまな感動ゲーから脱却し、CLANNADよりももっと敷居が低くなったように感じます。非18禁路線と感動路線を猛進してきたKeyは、自身の中で苦悩していたように思えます。まさか、このような軌道を描くとは思っておりませんでしたゆえ……。

 今までの路線でいいのか、新しいものを取り入れるべきか―――この作品から言えるのは、最終的な判断をユーザーに仰いだということです。リトルバスターズは、麻枝氏が前線を退いた後のKeyの指針をある程度決定付けるような気がします。そういった意味では、これは中だるみ……次作が中興の祖となりうるかと存じます。Keyのやりたいこと、やっていることはどういうことなのか、それを目を逸らさずに見つめたいものです。



以下、「『CLANNAD』 レビュー稿」より改編して。


歩はいったんひっくり返ると‘と金’になる。
しかし、‘と’を再びひっくり返すことは出来ない。
Keyも同様である。ひとたび非18禁路線・感動路線に向いたからには、何か奇跡が起きない限り元の鞘に戻ることはないだろう。
あとはギャルゲ工房として名を轟かせるのみだ。
なんのことはない、CLANNADはギャルゲ化つまり脱18禁への狼煙の役目を担っていた。
ユーザーの一人としては、このまま進んでいってほしいと願っている。
一度振った旗色をすぐに変えるのはタブーである。
ユーザー感情が良好ないま、求められていることを誠実に行うことが最上であろう。


……これは数人プレイしてみた限りの所感です。いろいろと詰め込みすぎているという印象は拭えませんね。私はこれでもいいかなと感じているんですが、それでは主にKanon以降のファンが納得しないでしょう。Keyに求められているものは「泣きゲー」なのです。私はCLANNADまでに培われた路線でもかまわないと思います。テーマが取っつきやすいですからね。ただ、Keyがやりたかったのがこのリトルバスターズに集結しているとすれば、「ああ、なんだ。Keyがやりたかったのはこんなにも日常的なものだったのか…」と、いい意味で感心してしまいますね。



追記・・・サイト名を変えるかもしれません。某知人曰く、「お前のサイト名、いくらなんでも地味すぎだろ…。」と言われたのがショックでショックで(泣)。