「そして明日の世界より――」のレビューに向けて、踏まえておくべきこと
私は周囲にエロゲー好きだということをあまり隠していないため、主に友人から「エロゲーは文学か」とよく聞かれる。といっても、萌え志向の人からはこの類の質問を受けない。読み物に近い感覚でエロゲーをプレイしている人ならではの感覚といっていい。そして、その禅問答的な答えとして、「文学ではないけれど文学的ではある」と前もって用意していた口上を述べるのが常だ。
ところで、健速は理屈を前倒しにした感情論でもって、シナリオを強引に展開するライターである。氏が手がけた作品と言えば、『遥かに仰ぎ、麗しの』と『こなたよりかなたまで』の2つがよく認知されている。小説にも手を出しているライターだし、名前くらいは知っているというユーザーも多いだろう。
このうち『こなたよりかなたまで』に関しては、以前手放しで褒めた事があった。実は前記事でお叱りを受けた作品というのはそのレビューで、あまりにも過大評価しすぎなのではないか、という指摘を頂戴した。そして今さらながら読み返してみると、当時分からなかった指摘の真意が手に取るように分かるのだ。この指摘がずっと私を悩ませていたが、つい先日のこと、別の人からレビューに関する指摘を受けて、この疑問が氷解した。名は伏せるが、この場であらためて謝意を表したい。
指摘した人と私の間には、そもそもレビューに対する認識論の違いがあった。その頃の私はブログ初めたてで、自分のスタイルというのをよく理解してなかった*1し、いちユーザーの感想のつもりで書いていたので、直情径行な文章を展開していた。だが、その人にとってのレビューは一種の文学評論だったのだろう。そのため彼の指摘と私が評価した趣旨はかみ合わず、議論する以前に亀裂が走っていたのである。
その反省を踏まえて健速について少し語ろう。
私はいちユーザーとして健速氏がこの上なく好きだし、感想もユーザーの嗜好性を最大限に発揮して書かせていただいている。それこそ感情論的には好きという表れなのだ。しかし、ライターとしての健速論と個人の嗜好は違った次元にある。批評空間に投稿するレビューから滲みでる健速観と自身が普段から持っている健速観は、どこか異質なものとして扱うべきだろう。
結論から言えば、健速というライターは感情を文章に変換するのが上手いライターである。しかし、理論的な組み立ては感情論を根としているので、文学的ロジックが非常に弱い。田中ロミオあたりを至高のライターとするならば、健速はその足元にも及ばないだろう。たとえば『こなたよりかなたまで』は、瀬戸際の命を題材にしているから感情論*2だけで突っ走った。他のライターであればもっと重厚にすることも可能だったはずなのに、そうしなかった。
ここで、健速が手がけた『キラークイーン』からヒロインの文章を抜粋したい。内容は『こなたよりかなたまで』と180度違えど、置かれた場面は『こなたよりかなたまで』とよく似ている。死に際して達観している御剣総一は、遥彼方を髣髴とさせる。以下は、そんな彼に対してヒロイン姫萩咲実が発した言葉である。
「どうして貴方は私たちと生きようとしてくれないんですか?!どうしてっ!?」 「貴方は守るだけですか!?守って終わりですか!? 貴方は何を守っているかも分からないくせに!!」 「結局貴方は私たちをなんか見ていない。 全部死んだ恋人の為。その人との約束の為!」 「だから貴方は私たちに裏切られて構わないとすら思ってる!違いますか!?」 「結局貴方は自分さえ良ければよかった!自分さえ正しければ他はどうでも良いと!」 「私たちはこんなに貴方を信じているのに、結局貴方は私たちを信じていなかった。 どうでもいいと思っていただけ!ただ、受け入れただけ! 私たちは貴方に利用されていただけ!」 「私たちは、そんなに貴方にとってどうでもいい存在だったんですか? 自殺の手伝いをするような人間にしか見えなかったんですか?」 ―――『キラークイーン』より 姫萩咲実
これら激情でまくし立てたかのような文章を、感情論の帰結と呼ばずしてなんと呼ぼう。健速氏を評価しない人々というのは、このクライマックスに至るまでの理論立てが弱いからだと言う。実際そうなのである。『こなたよりかなたまで』でも、物語が理知的に進んでいるかに見えて、その実感情論的に進んでいた。そして『キラークイーン』もまた然りなのだ。健速の作品は、否応無しに感情論的な面が見え隠れする。つまり健速作品に対するユーザーの好き嫌いは、そのあやふやな感情の描き方を気に入るか気に入らないかに左右されている。
それでも健速というライターを評価する理由は、ユーザーが望んだ方向へシナリオが進み、ブランドにとっても無難な作品に仕上げることだ。これは田中ロミオには到底できない*3芸当である。健速が作成者が望んだ通りの答案を提出するタイプだとしたら、田中ロミオは作成者が考えもつかなかった独創的な観点で答案を提出するタイプなのだ。まるで水と油だが、予め用意された世界観をロジカルに構成することに田中ロミオは長けていない。逆に世界そのものに変調をきたす書き方は健速には到底無理である。
ここらへんがユーザーの好き嫌いに直結する。健速は感情論の操縦は一流だが、オリジナリティはまるでない。もし独創性が欲しければ、文学そのものに傾倒するか、そういったライターに心酔したほうがより賢い。文学とはまた違った文学的エンターテイメントなのだ。
それだけに、今プレイしている『そして明日の世界より――』は一抹の不安と期待がある。今回は論述試験に近い。「何か自由に書いてください」と書かれた解答用紙に、健速が何を書いたか。そこは最低限注目したいところである*4。
追記…指摘を受けたような、作家論としてこれを書いたつもりはありません。単にレビューに向けての気づき程度の小文です。『巫女舞』やら小説やらには手をつけておりません。健速を全て語るにはあまりにもバックグラウンドが不足しています。